浅井長政

出生

天文14年(1545年)、浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。

近くにある観音正寺には実際に訪れたことがあります。名言ぞろいのお寺でした。

第三十二番 繖山 観音正寺 | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

下克上によって、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏であったが、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政(あざいすけまさ・長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。久政は六角氏との外交に力をいれ、北近江を維持していた。家臣の中には久政の政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。

15歳で長政が元服した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である六角義賢の一字をとって、賢政と名乗らせている。また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻させられる。

永禄3年(1560年)8月中旬、賢政(新九郎)は15歳で軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な働きをみせる。このことで六角氏に服従する状況に不満を持っていた家臣達は賢政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続した。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻した。

六角家の衰退、信長との同盟

永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が六角氏当主の義治により殺害される(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、500の兵で見事な働きを見せた。

この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により、膠着状態が続くことになる。

1560年代、織田信長は、美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため使者を送り、長政に同盟を提案。同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。永禄10年(1567年)9月頃に(年代は諸説あり)、長政は信長の妹の市を妻とした。

この浅井長政とお市の子どもが茶々・初・江です。

浅井茶々(淀殿) | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したといわれている。

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在していた足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。9月、信長は上洛を開始。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護する。

信長との同盟破棄

元亀元年(1570年)、若狭・越前の朝倉方の城の攻略のため、信長が徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過しているところ、長政は突如同盟関係にある信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかからせた。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、殿(しんがり)を務めた明智光秀、木下秀吉らの働きにより退却には成功(金ヶ崎の戦い)。

同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵し(野田城・福島城の戦い)、反信長の意志を表した(信長包囲網)。

9月、朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。その後、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571年)9月に信長の比叡山焼き討ちにあう。

元亀3年(1572年)7月、信長が北近江に進軍。長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い、近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続く。

同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄が甲斐国を出立。

同年10月、宮部城の宮部継潤が羽柴秀吉の調略で降伏、その後信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突き、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまう。その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。

同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺的態度を示す。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが、翌年2月には進軍を再開、家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向けることになる。

浅井氏の滅亡

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請し、義景は2万の軍で駆けつけるが、織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断してしまった義景は越前国に撤退を始める。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ攻め入り朝倉氏を滅亡さる(一乗谷城の戦い)。その後、取って返し全軍を浅井氏に向ける。

浅井軍は信長の軍によって、本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれる。信長は不破光治、さらに木下秀吉を使者として送って降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂。

8月27日、父の久政が自害し、9月1日には長政も自害した。享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。

信長公記には、天正2年(1574年)の正月、信長は内輪の宴席において、薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。

この話はのちのドラマなのでは、信長の久政・長政や朝倉氏に対する怒り・恨みの根強さを象徴したエピソードのように綴られていますが、実際は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである、とする説があります。

武勇に秀でていたのは事実かと思われます。でなければあの信長が同盟をむすぶことはないでしょう。あと、ドラマや映画ではイケメンで細身の俳優さんが演じておられ、ゲームのキャラでもかっこよく描かれています。しかしながら、よく見る肖像画では「ぽっちゃり」したすがたで描かれています。実際の姿は長身の大柄の人物だったとされています。当時の人物の姿がわかると印象も変わってくると思います。

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