石田三成

出生

石田三成は、1560年(永禄3年)に近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。父は浅井氏に仕えて石田村を治める豪族「石田正継」(いしだまさつぐ)、母は浅井氏家臣の娘「瑞岳院」(ずいがくいん)。三成は、色白で大きな目の美少年とされており、少年時代は隣町の大原観音寺(現在の滋賀県米原市朝日)で過ごしていたと伝えられています。

大原観音寺には、石田三成に関する有名な逸話・三献の茶(さんこんのちゃ)が残されています。

三杯の茶(三献茶)

長浜城主となった豊臣秀吉は、領地内で鷹狩をし、その帰りにのどが渇いたため、ある寺に立ち寄りお茶を出すように求める。そのときに対応したのが、寺の小僧・石田三成といわれる。

三成は、秀吉に初めの1杯を「ぬるめのお茶を大きめの茶碗」を提供。秀吉がそのお茶を飲み干すと、今度は「少し熱めのお茶をやや小さめの茶碗」。もう一度飲み干すと「熱いお茶を小さい茶碗」を提供。秀吉のニーズに合わせて温度の違うお茶を3つの茶碗に分けた気遣いをほめられ、寺の小僧・石田三成を家来に組み入れたと伝えられる。

ただ、この三献の茶には諸説あり、舞台が大原観音寺でなく古橋法華寺とする説や、この説を否定する説も存在する。

秀吉に仕官し、その後

天正2年(1574年)頃、(15歳)羽柴秀吉が織田信長につかえて長浜城主になったときに父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。 秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。

天正10年(1582年)6月(23歳)信長が本能寺の変により死去し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。

天正11年(1583年)(24歳)賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。 同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務める。

豊臣政権の官僚として

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される(26歳)。

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島左近を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。また、秀吉から堺奉行に任じられる。 三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。

秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があった事である。こうした秀吉の遠征を支えたのが、堺で整備した兵站基地であり、輜重(しちょう・兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称)を担当した三成ら有能な官僚達であった。

九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。 また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。

天正17年(1589年)、美濃国を検地する。

天正18年(1590年)(31歳)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。

ここでの話が、小説・映画にもなった「のぼうの城」です。

のぼうの城 – 映画・映像|東宝WEB SITE (toho.co.jp)

ここでは取り上げていないが、他国との武将との斡旋を多くとりついでおり、官僚としての実績を確実に積み上げていく。

天正19年(1591年)4月(32歳)近江佐和山に入城する。 ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城。

文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。その1年後、明軍の講和使を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。 しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招くことになる。

文禄3年(1594年)9月3日に母・瑞岳院が死去。佐和山城下に瑞岳寺を建立している。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。 秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となった。

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。 明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。 ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走している(日本二十六聖人)。

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。 その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責(けんせき)や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。 この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯(ふくはらながたか)らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が没する。戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

武断派との対立

秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていく。

慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたる事を改めて誓う起請文を作成している。 一方、徳川家康は同年、武断派諸侯と関係を結び始める。

翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚。 これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こるが、 家康が起請文を提出することなどにより一応の解決をみる。

同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興(細川ガラシャの夫)、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。

慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。

細川ガラシャの波乱の人生 | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

関ヶ原での敗戦後

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)関ヶ原の戦いにて敗戦。

9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死。

9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。

9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。

9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原にさらされた後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

石田三成とは

最期を目前にした三成の言葉が残されています。処刑前の石田三成は「喉が渇いたので水が欲しい」と、見張りの者に要求します。見張りの者が「水はないから柿を食え」と答えると、石田三成は「柿は淡(たん)の毒になる」と言って、柿を食べるのを拒みます。「これから死ぬ者が毒を気にしてどうする」と見張りの者は笑いましたが、それに対して「大志を持つ者は最後まで命を惜しむ」と、石田三成は語りました。

石田三成は当時から評価の分かれる人物だと思います。三成にはもったいないものとして「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」といわれたりしていますが、

毛利輝元「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」
島津義弘 「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」

と、三成にたいして良い評価をしている人物もいます。

石田三成はまっすぐで、真面目な性格の人物だったと思います。ただ、人付き合いがあまり上手ではなく、誤解をまねきやすい方ではなかったでしょうか。敗軍の将は後世に悪くつたわる傾向にありますので、史実に残っていることを忠実に見ていきたいと思います。

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