出生から家康に仕えるまで
天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。
当時、三河の地を巡って、尾張国の織田信秀(おだのぶひで:織田信長の父)と駿河国の今川義元、そして松平広忠(まつだいらひろただ:徳川家康の父)が争っている。
康政が生まれた頃、松平竹千代(まつだいらたけちよ:のちの徳川家康)は、今川家の人質になるところが、駿府へ送られる道中に織田家の家臣により略奪され、織田家の人質となってしまう。その後、織田家と今川家が和睦し、改めて今川家の人質になる。松平竹千代は、人質のまま1555年(天文24年/弘治元年)に元服して、今川氏一族の関口刑部小輔の娘、築山殿と結婚し、松平元信と改名。さらに1558年(弘治4年/永禄元年)に松平元康と改名。
この時期、家臣達の中から年の近い者達が、松平元康(徳川家康)の人質生活にお供をする。康政は13歳のときに、松平元康(徳川家康)と出会い、小姓に見出される。その日から、康政は松平元康の家臣となる。なお、榊原康政と同じ徳川四天王と呼ばれる本多忠勝、井伊直政も松平元康の小姓。
戦場での活躍
永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した藩翰譜(はんかんふ)によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したいわれる。この後、天下を掌握した秀吉とは和解。
慶長4年(1599年)、宇喜多秀家の家中で家臣内での対立が起こった。宇喜多騒動と呼ばれるこの家中内紛を、越前国敦賀城主の大谷吉継と徳川家康の家臣である榊原康政が調停役として派遣される。多くの処分者と離反者を出して騒動は終息する。この時宇喜多家を離れた家臣は皆、徳川氏の家臣となっている。この大量離脱により、豊臣氏の有力大名であった宇喜多家は家中が混乱し、重臣らの離脱により大きく軍事力を減らし、翌年に起きた関ヶ原の戦いに影響を与えたとされている。
関ヶ原合戦とその後
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃上田城の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する。藩翰譜によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。関ヶ原の戦いの後には老中となる。
慶長11年(1606年)5月6日に毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。前記の関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、その甲斐なく59歳で没している。
本多忠勝や井伊直政に比べると知名度が低いように思います。しかし、宇喜多家の内紛の調停に派遣されていることや、秀忠が関ヶ原合戦に遅参したことで家康が激怒しているのを康政がとりなしていることをかんがえると、家康からの信頼はとても厚かったようにおもいます。
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