細川ガラシャ

明智光秀のつながりから、その子「細川ガラシャ」について書いていきたいと思います。

出生から結婚、出産

1563年(永禄6年)明智光秀と妻・煕子(ひろこ)の間に三女として生まれる。出生地は越前国(現在の福井県北部)。細川ガラシャの本名は、「明智玉」(あけちたま:または玉子)。

1578年(天正6年)15歳のとき、父・明智光秀の主君である織田信長の勧めにより、「細川藤孝」(ほそかわふじたか)の嫡男、細川忠興(ただおき)に嫁ぐ。

1579(天正7年)には長女、1580年(天正8年)には長男「細川忠隆」(ほそかわただたか)が生まれる。

父・光秀の謀反から始まる波乱

1582年(天正10年)6月 父・明智光秀が織田信長を討つ本能寺の変が起こる。本能寺の変のあと、明智光秀の支援要請を細川藤孝、細川忠興親子はことわる。その後、明智光秀は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で敗れ、細川玉の母や姉達は「坂本城」で自害。

謀反人の娘となってしまった細川玉は、丹後国(たんごのくに:現在の京都府)味土野(みどの)にある御殿屋敷(味土野城の女城)に隠棲させられる。この時、結婚する際に付けられた小侍従(こじじゅう)や細川家の親戚筋にあたる清原家の「清原マリア(清原いと)」ら侍女が彼女を支えたとつたわる。こうして事実上、細川家によって保護され、この地で2年に亘る隠棲生活を送る。この隠棲とされているときに子どもを2人出産。その一人が細川興秋(おきあき)。

キリスト教との出会い

1584年(天正12年)、細川忠興とガラシャの別居生活を聞いた羽柴秀吉は、細川玉を許し、細川家へ戻すよう細川忠興に伝え細川家の大坂屋敷にもどるが、謀反人の娘として監視される生活がつづく。この時に高山右近(キリシタン大名)と出会い、彼からカトリックの話を聞きその教えに心を惹かれていく。

天正15年(1587年)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところで、玉は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」との言葉を残している。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、協会側は、彼女の身なりから高い身分であることが推察されることと、誰なのか分からないことから、洗礼は見合わされた。

教会にいったことでさらに監視が厳しくなり、外出できる見込みは全くなくなってしまう。そこで玉は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励むことになる。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。)という洗礼名を受けた。

ガラシャが洗礼を受けたことで、忠興との間に生まれた子ども達や側近の入信も相次ぐ。九州から戻った忠興は、妻や侍女達がキリスト教の洗礼を受けたことを知り激怒、家中の改宗した侍女達の鼻や耳をそぎ、追い出すなど、荒れた行動に出る。しかし、効果はなく、ガラシャは一層信仰を深める結果となる。この時の話で忠興が家臣を手討ちにして、その刀の血を彼女の小袖で拭っても動ずることなく、そのまま数日間も着替えないので、結局は忠興が詫びて着替えてもらった。他にも、忠興が「まるでお前は蛇のような女だな」と言い、それに対してガラシャは「鬼の妻には蛇が似合いでしょう」と返したとも伝えられる。

壮絶な最期

慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常であり、この時も同じように命じていた。

この時に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。37歳という若さであった。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。

石田三成 | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

このことで、石田三成に以後、諸大名の妻子を人質に取る戦略をやめさせるなど、大きな影響を及ぼす。

ガラシャの死の影響

細川ガラシャの死を知った、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父は、細川屋敷の焼け跡へ行き、細川ガラシャの骨を拾って、堺のキリシタン墓地に葬る。また、細川忠興は妻の死を大変悲しみ、教会葬を神父に依頼。キリスト教が主宰する教会葬にもかかわらず、細川忠興も参列。そして、細川ガラシャの遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬。

ガラシャの死は、細川家の家督相続問題へと発展。ガラシャが死亡した際、屋敷から逃れた婦人の中に、細川家の嫡男である忠隆(ただたか)の正室・千世(ちよ・前田利家・まつの娘)がおり、千世は姉・豪姫前田利家・まつの娘、豊臣秀吉の養女)の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した。彼女の死後、徳川家とつながりがあった三男「忠利」が次男「興秋」を差し置いて家督を相続。不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に付き、父と敵対関係になる。興秋は、大坂冬の陣・夏の陣からは生還しましたが、忠興の怒りは収まらず、父から切腹を申し付けられることになる。細川ガラシャの死から家騒動に発展したことから、彼女の影響力の大きさを推し量ることができると言える。

細川ガラシャの波乱の人生をみてきました。私が感じたのは、当時の女性の位置づけは現代の感覚とはかなり違うのではないかと思いました。夫は外で戦争という名の「仕事」をし、妻は家を治める、他の家との外交関係を築く「仕事」という対等な役割分担がなされていたとおもいます。一人の人間がさばききれる量の仕事ではありません。

「昭和」の考え方が残っている現在では、女性が「外」でも仕事をし「家」に帰ってからも「ワンオペ」と言われるように、家事も育児もこなし、夫が手伝うというような状況の家庭が多いように思います。

想像することしかできませんが、当時の人々が何を考え、行動していたのか、思いめぐらせてみてください。今からの行動が変わります。

明智光秀 | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

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