酒井忠次

出生から家康に仕えるまで

大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕える。

竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中で年長者にあたる23歳の家臣として同行。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕え、弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、勝家を敗走させている。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に味方したのに対し、忠次は家康に従った。永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河を統御する役割を与えられる。

永禄12年(1569年)末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定しており、忠次は武田方との交渉を担当。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げる。

松平信康の切腹事件

この事件の主役は、徳川家康の長男にあたる松平信康(まつだいらのぶやす)。わずか9歳にして織田信長の娘である徳姫と結婚して岡崎城に入り、幼くして城の主となる。この結婚は政略結婚で、小さな大名に過ぎなかった徳川家にとって、織田家とのつながりは家を守るためであった。

その後、松平信康は14歳で初陣を迎え、長篠の戦いなどで多くの武功を収めます。勇猛果敢な武将として知られるまでに成長するが、1579年(天正7年)父親である徳川家康が突如として岡崎城に現れて、松平信康を城から追放。最後には切腹を命じられるまでになる。

嫁姑問題が事の発端だといわれる説があり、松平信康の正妻である徳姫と、母親である「築山殿」との関係が悪かったにもかかわらず、夫の松平信康は妻の味方ができずにいた。それに加え松平信康には、なかなか男児に恵まれず、それを理由に徳姫は姑に嫌みを言われ続け、その不満は夫の松平信康に向かうことになる。

徳姫は、長年のつもりつもった不満を父親である織田信長に手紙(信長の十二か条)で訴えることになる。その義父でる信長を怒らせたことにより切腹もやむを得ないことになってしまう。

家康の厚い信任を受けていた忠次は天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世と共に弁解の使者に立てられて安土城に赴いている。この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。

以後も家康の重臣として仕え、天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変の後、家康は信長の死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る(『家忠日記』)。忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗。また天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させている。

晩年

天正13年(1585年)に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、天正14年(1586年)10月24日に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。天正16年(1588年)10月、長男の家次に家督を譲って隠居する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。京都におり、豊臣秀吉からは京都の桜井屋敷と世話係の女と在京料として1000石を与えられ、この頃、入道して「一智」と号したと伝わっている。

慶長元年(1596年)10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓は知恩院山腹の墓地内にある。

酒井忠次を語るうえで欠かせないのは「信康切腹事件」です。数多くのドラマや映画でも取り上げられる事件で、最終的には築山殿(徳川家康の正妻)の殺害にまでいたる徳川家康の人生の中でもとても大きな事件です。徳姫の父・織田信長の松平信康への怒りを酒井忠次は収めることができず、その後徳川家康に嫌味を言われ冷遇されていたともいわれています。

ただこの事件も、最近の研究では家康と信康・築山殿との関係が悪化したことが原因といわれています。築山殿が武田家との内通、徳姫との不仲、唐人の減敬と密通などがあげられる徳姫が父に送った信長の十二か条は加筆、修正の可能性があり、殺害されてもしかたがないと思わせるためかもしれません。酒井忠次もその後は要職につき、京都で隠居生活も優遇されています。徳川家のなかでも「汚点」として残り、語られることもタブー視されあまり記録がのこっていません。

歴史は「勝者」によってかたられ、後世の人間に「演出」され「着色」されていきます。確実とおもわれる史実に目を向けて深堀していくことが大切だと私は思います。

 

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