本多忠勝

出生から家康に仕えるまで

天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣。このとき、同時に元服。しかし、この初陣で敵将に討ち取られそうになったところを辛くも叔父・忠真に救われる。その2年後、1562年(永禄5年)の鳥屋根攻めにて、忠勝は初の首級を挙げることにになる。

永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢され、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。

戦場での活躍

1570年(元亀元年)姉川の戦いで織田・徳川連合軍は、動員数では劣る浅井・朝倉連合軍に、本陣付近まで侵攻される。忠勝は突破口を開くため、単騎で朝倉軍の正面から突入しました。これを見た徳川軍が、本多忠勝を討たせてはならないと奮起、徳川四天王のひとりとして知られる榊原康政(さかきばらやすまさ)らが側面から突撃を行ない、朝倉軍の陣形を崩すことに成功。こうして浅井・朝倉連合軍は崩壊。織田・徳川連合軍は、勝利を果たす。この戦で多大な貢献を果たした本多忠勝を、織田信長はのちに花も実もある武将だ(外見ばかりでなく、中身も充実している)として褒めている。

武田信玄は、織田打倒のため、将軍足利義昭や本願寺顕如(けんにょ)、浅井長政、朝倉義景などの反織田勢力との連携。信玄は、織田信長の包囲陣を作るために軍勢を三分し、1572年(元亀3年)西上作戦を実行。それぞれ美濃国(現在の岐阜県南部)・三河国・遠江国(現在の静岡県西部)から、織田・徳川領を侵攻。

信玄の作戦によって、徳川家康の要所である二俣城への侵攻が開始。徳川家康は、本多忠勝らを天竜川へ偵察隊として先行させますが、武田軍の先発隊と遭遇。二俣城へ出撃を開始していた徳川家康は退却を始めるが、一言坂(ひとことざか:現在の静岡県磐田市)で追い付かれたため、殿(しんがり)役を務めていた本多忠勝は武田軍と交戦、徳川家康率いる本隊の撤退に貢献。

その後、本多忠勝は長篠城攻めで、榊原康政らと武田軍に勝利。続く1575年(天正3年)の長篠の戦い、1581年(天正9年)の高天神城奪還戦でも武功を挙げる。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある。

名槍、蜻蛉切

ここに出てくる蜻蛉(とんぼ)とは、本多忠勝が所持していた名槍蜻蛉切です。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍(槍御手杵(おてぎね)日本号(にほんごう、または、ひのもとごう)」の一つに数えられている名槍。茎には「藤原正真作」の銘がある。柄の長さは当時通常の長槍は一丈半(約4.5m)だったのに対し、蜻蛉切は二丈余(約6m)だったという。晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺余(約90㎝)ほど短く詰めました。

伊賀越えから関ヶ原まで

1582年(天正10年)6月、徳川家康は安土城へ招待された帰りに立ち寄った堺で、織田信長が明智光秀の謀反により討たれたことを知らされる。このとき、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、伊賀越えを行わせたという。この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだという。

天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、約500m先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、圧倒的な兵力差がある大軍に対して、怯まずに追撃を阻止しようとする本多忠勝の姿に、豊臣秀吉は豪胆さと忠義を感じ、攻撃をしてはいけないと自軍に命令を下したといわれる。

豊臣秀吉の死から2年後、53歳になった本多忠勝は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍の最高司令官である軍監を井伊直政とともに務める。

井伊直政 | たいすけのブログ (taisukecocoharublog.com)

作戦指揮を担当していましたが、本多忠勝は自ら手勢を率いて90にもおよぶの首級を挙げる。この功績によって、関ヶ原の戦いの翌年1601年(慶長6年)には、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に移封される。このとき、徳川家康は本多忠勝の旧領である大多喜も同時に与えようとしていますが、本多忠勝はこれを辞退。そのため、大多喜5万石は本多忠勝の次男、本多忠朝(ほんだただとも)に与えられることになる。一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望んでいたが、叶えられることはなかった。

晩年

忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭、忠勝自身は慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。

慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居。慶長15年(1610年)閏2月には三河国田原で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行した。同年10月18日に桑名で死去。享年63。この際に重臣の中根忠実と梶原忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している。

本多忠勝とは

武勇もさることながら、徳川家康に対しての忠義心の熱さがどの家臣よりも伝わってくる人物です。どこまでも家康にお仕えし支えていこうという危害に満ち満ちていた方だったんだと思います。周囲の人間からすれば無謀な行動も彼の中では計算された行動ではなかったでしょうか。でなければ戦国の世を生き残ることはできなかったと思います。あなたはどのような印象をお持ちでしょうか。

 

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