福知山城を訪れたことがあるので、このお城のゆかりの人物のことについて書いていきたいと思います。
明智光秀の生涯を年表で追っていきます。明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。
また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方(おみのかた)」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。
出生から斎藤家の家臣へ
1528年 (享禄元年) 1歳
斎藤道三の家臣で、土岐氏の分家である明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれ、その後、明智城へ移る。通称は十兵衛
1533年 (天文2年) 5歳
斎藤道三が、稲葉山城から美濃の守護・土岐頼芸を追放して城主となり、実質的に美濃を支配下に治める
1535年 (天文4年) 7歳
父 明智光綱が死去し、明智光秀が家督を相続。
叔父で明智城主の明智光安の後見を受ける
1544年 (天文13年) 17歳
稲葉山城の斎藤道三を織田信秀が攻め入る「加納口の戦い(井ノ口の戦い)」に参戦。斎藤道三の計略で織田軍は大敗を喫する。
流浪時代(越前へ)
1556年 (弘治2年) 29歳
斎藤道三と長男・斉藤義龍が「長良川の戦い」で争い、斎藤道三は討ち死に。
このとき、斉藤義龍に明智城も攻め落とされる。
明智家は離散し、明智光秀は浪人となって、諸国遍歴に出る。
この時期に幕臣として足利義輝に仕えていた細川藤孝と知り合う
1562年 (永禄5年) 35歳
朝倉家に仕え、加賀一向一揆では、鉄砲隊を50人預かる
1563年 (永禄6年) 36歳
明智光秀と煕子に娘・明智玉(のちのガラシャ)が誕生
1565年 (永禄8年) 38歳
「永禄の政変」で、三好三人衆と呼ばれた三好長逸、三好政康、岩成友通と松永久秀が二条御所を襲撃し、第13代将軍 足利義輝を暗殺
足利義昭と織田信長の間で
1568年 (永禄11年) 41歳
足利義昭の足軽衆になる。
足利義昭と共に織田信長がいる美濃へと移る。
同年 織田信長が足利義昭を立てて上洛。
足利義昭は第15代将軍に任じられる
1569年(永禄12年) 42歳
明智光秀と煕子に長男・明智十五郎(光慶)が誕生
戦いの日々
1570年(元亀元年) 43歳
足利義昭と織田信長が対立を深める
同年(永禄13年 4月20日) 「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政が織田信長を裏切り、織田軍は撤退。豊臣秀吉、池田勝正と共に明智光秀が「殿軍(しんがり)」を務める
同年(元亀元年 6月28日) 「姉川の戦い」で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突し、織田・徳川連合軍が勝利する
このころから織田信長の家臣として頭角を現す明智光秀
1571年(元亀2年) 44歳
織田信長の命で、明智光秀らが比叡山焼き討ちを実行。
数々の功績が認められ、織田信長より近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)5万石を与えられ、坂本城の築城を開始する
1572年(元亀3年) 45歳
「小谷城の戦い」で織田信長に従い、琵琶湖上から水軍を率いて攻撃し、近江の浅井長政を攻める
1573年(天正元年7月) 46歳
明智光秀は、「槇島城の戦い」で織田信長側で出陣。
足利義昭は降伏し、京を追放される。室町幕府が滅亡
1573年(天正元年8月)「一乗谷の合戦」で、織田信長が朝倉義景を破り、朝倉家を滅ぼす
(天正2年) 47歳
武田勝頼が東美濃を攻めた「明智城の戦い」に出陣する
1575年(天正3年) 48歳
織田軍は「長篠の戦い」で、鉄砲戦術により武田軍を大破し、勝利を収める。その勢いのまま、越前一向一揆を討伐。
織田信長はさらに勢力を広げ、丹波攻略に力を入れる
1576年(天正4年) 49歳
織田信長の命を受けて、1570年から続く浄土真宗本願寺勢力の本山・石山本願寺を攻める。この時期に亀山城の築城にも着手
同年11月 明智光秀の妻・煕子、病にて死去
1577年(天正5年) 50歳
松永久秀の居城「信貴山城の戦い」に参戦。この戦いで松永久秀は自害
1577年(天正6年) 51歳 坂本城で茶会を開く
1578年(天正6年)明智光秀の娘・玉(のちのガラシャ)が細川忠興(細川藤孝の子)に輿入れする
1579年(天正7年) 52歳
織田信長が丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)を配下にし、明智光秀に一国(29万石)が与えられる
1580年(天正8年) 53歳
明智光秀が横山城を大改修して、福知山城に改名
1581年(天正9年) 54歳
坂本城で連歌会と茶会を催す。
細川藤孝と共に丹波の見地を行なう
1582年(天正10年5月) 55歳
織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める
本能寺の変からその後
1582年(天正10年6月2日)明智光秀、軍を京に転進させ、本能寺にて織田信長を自害させる(本能寺の変)
同年(天正10年6月10日)「山崎の戦い」で、中国から大返ししてきた豊臣秀吉と対決し、明智光秀敗戦。
敗走途上、伏見・小栗栖の竹やぶで落人狩に討たれる
明智光秀はここで討たれてしまいますが(生き残ったという説もあります)明智家の血筋は細川家に受け継がれ、現在の皇室にもつながります。
前半の信長に仕官する前はわかっていないことが多く、推測の域です。上記の年表には記してはいませんが、信長に仕官した後は毎年のように戦争をしています。当時はそのような時代でしたが、命をかけた「仕事」ですので、ストレスはかなりのものだったと思われます。
光秀がなぜ信長を撃ったのかは、日本史の最大の謎の一つです。いろいろな説が言われています。あげていくと「野望説」「怨恨説」「黒幕説」。黒幕にもいろいろあり、朝廷・足利義昭・羽柴秀吉・徳川家康・イエズス会まであり上げるときりがありません。
最近、注目されているのが「四国征伐回避説(四国説)」があげられます。信長の四国遠征を止めるためと言われています。
いずれにしても推測に域はでません。信長の家臣のなかでも一番の実力者であった人物が「上司」を討ち果たすということは、よほどの考えがあったと思います。あなたは、どの説を支持しますか。
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