常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建したとされています。
その頃は新堂寺と称されていましたが、室町時代の初め康応元年(1389)足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に「常光寺」「初日山」の扁額を奉納されこの時から初日山常光寺と呼ぶようになりました。
それより前、南北朝時代に、楠木正成の家臣・八尾別当顕幸が、当寺にあって大いに南朝のために尽したそうです。その顕幸の墓は、現在も本堂横の墓地に残っています。
伽藍はその後荒廃し再建されましたが、この付近は、江戸時代初めの元和元年(1615)「大坂夏の陣」の中心地となり、またもや戦乱に巻き込まれました。
しかし、この寺を以心崇伝(江戸時代初期の臨済宗の僧。徳川家康の下で外交文書の書記役となる。その後しだいに頭角を現し、幕政の重役となっていきます。伴天連(バテレン)追放令はじめ、寺院法度(はっと)、公家(くげ)諸法度などにも関係し、大坂城攻撃の端緒となった京都方広寺大仏殿の鐘銘問題も崇伝の発案といわれています。「黒衣の宰相」ともいわれた人物です。)が抱え寺としていてため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺はなんの被害も受けませんでした。
この戦いで藤堂高虎は、当寺の廊下で長曽我部家臣の首改めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ今も残っていますが、一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として来訪者の目を見張らせています。
そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいます。
八尾別頭顕幸墓
寺伝によると、多田満伸の子・賢快が初め、八尾別当職に任じられ、八尾僧正に称された。顕幸はその十世の孫で、八尾城主として権勢を持ち、後に楠木正成公の八臣の一の家来となり、南朝方に尽した武士であり、権僧正でもありました。
正成の湊川戦死の後、顕幸は和田・恩智両氏と共に正成の子正行を助けたが、延元三年(1338)八尾城で病死し、この地に葬られたと伝えられています。
豊臣家と徳川家の戦「大阪の陣」の名残を少し感じられる場所かと思います。
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