第三十三番 谷汲山 華厳寺

旅行

縁起

寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領(おおぐちだいりょう)です。奥州会津の出身の大領は十一面観世音の尊像を建立したいと願っており、苦行の末、霊木を手に入れる事が出来ました。霊木を手に入れた大領は都に上り、尊像を完成させました。そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓(ふじづる)を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり、「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結びます。そしてこの地に豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

私が参拝したときは雨が降っており、平日の午前中ということもあり、閑散としていました。西国三十三所の満願霊場ということもあり門前には土産物店がならぶ商店街のようになっていますが、朝早い時間であったため開いている店もありませんでした。しかし、春には桜が咲き乱れ、夏の頃には木々の緑、秋には紅葉が絵画のように私の前に広がります。冬になれば雪が積もり山水画のようになるでしょう。

貴方も、出かけてみてください。きっと良い「絵画」に出会えることでしょう。

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